快傑えみちゃんねる 1999年07月12日 放送回
今年を代表する大ヒット曲になった“だんご3兄弟”。 歌っていた茂森あゆみの身辺もガラリと変わった。 「実家や母校まで取材が行ってビックリ」。 曲については「50年後でも親子で歌ってもらえたらうれしいですね」。 熊本出身。 ピアノを習っていた姉たちの影響もあって、武蔵野音大声楽科に進学。3年生の時、就職課の掲示板に張り出されていたNHKの“歌のお姉さん”のオーディションに応募した。 「もし合格していなかったらオペラ歌手を目指していました」。ソプラノで3オクターブ半は出せるという。
歌のお姉さんになったのは大学在学中の21歳の時。 「アルバイト体験も全くなしで、いきなり大人の世界に飛び込んだものだから大変なことだらけでした」。番組にやって来るのは3歳児。「胸につけているマイクを食べられたことも」。 大阪の子供はとくにやんちゃだったとか。 運転、お酒、ピアス、恋愛など禁止事項がいっぱい。 「ピアスは子供にケガさせたらいけないので付けませんでした。でも、他は適当に」と含み笑い。週末の地方コンサートでは一度に30曲ぐらいを披露していた。「歌詞や振りを覚えるのが大変でした」。 子供たちに囲まれた生活は6年間続いた。 ▲ 和歌山出身の坂本冬美が歌手の道を目指したのは、歌好きのおじいちゃんの影響。 「明るい村の人気者。私は石川さゆりさんの大ファンでした」。 高校生の時には練習のために自分でローンを組んで5万5千円のカラオケセットを購入した。 「お好み焼き屋やレストランでアルバイトして、ローンを返していきました」。 デビューのきっかけとなったのはNHKの“勝ち抜き歌謡天国”。恩師・猪俣公章と出場した。 当時のVTRが流れると、坂本は思わず「だいぶ私もアカ抜けましたね」と苦笑い。 レッスンの傍ら、猪俣の愛車ベンツの運転手もつとめた。 「先生は目の前を他の車が走っていると、すぐに“抜かせ!”って。軽自動車しか運転したことなかったから、もう大変でした」。
デビュー曲“あばれ太鼓”がいきなり大ヒットしたが、実は本人は候補曲の中でもあまり気に入っていなかった。「無法松は今の時代に合わないと思っていた。それに女歌が歌いたかったし」。 キャンペーンでは全国をくまなく回った。 カラオケ仲間の集まる民家を訪れる機会も多かった。 四国の山奥での出来事。「庭で着替えて客間がステージ。工事用のライトを浴びて歌いましたよ」と思い出し笑い。 「地道なキャンペーンがヒットにつながったんだと思います」。
そんな坂本が中学時代に熱中していたのが、ソフトボールの部活。 キャッチャーでキャプテン。そこで根性と体力を養った坂本を見習って、大澄賢也が関西屈指の実業団チーム、ミキハウスのソフトボールに1日入門する。美人エースの剛速球にきりきり舞いさせられる賢也が見もの。
さて、デビューから歌一筋に生きてきた坂本だったが、恩師猪俣を亡くした時は、歌手を辞めたいと本気で悩んだ。 「プロデューサー的存在でもあったから、これからいったいどんな曲を歌えばいいのか、全く分からなかった」。 悩む彼女を立ち直らせてくれたのが“夜桜お七”だった。「自分の気持ちを切り替えようと、賭けの気持ちでした」。 結果、大ヒットとなって、年末の紅白歌合戦のトリをつとめた。デビュー10年目の快挙だった。 ▲ 音大にトップ入学して首席で卒業した茂森だが、その素顔はけっこうひょうきん。お酒が入るとガラリと変身。「とにかくうるさくなるみたい」。大相撲の大ファン、お気に入りの若乃花関と雑誌で対談したら、不倫相手だと騒がれた。「見出しが“若、だんご食った”ですって。ショックでした」。 ちなみに女将さん業は到底つとまりそうにないので、力士の奥さんになる気はないそう。 かたや坂本は「母親からは結婚を急かされているけど、いろんなことを考えると1人のほうが楽かな。でも、子供はほしいです」。 歌のお姉さんになっていなかったらオペラ歌手を目指していたという茂森。そのきっかけとなったのがイタリアの女性オペラ歌手、レナータ・スコットさん。茂森にとっては長年の憧れの人。そこで賢也と共にイタリアへ。現地では思わず茂森を「日本に帰りたくない!」と叫ばせる感激の対面が待っていた。 エンディングはえみちゃんねるヒットパレード。“だんご3兄弟”“夜桜お七”“大阪ラプソディー”をゲストとレギュラー陣のペアで熱唱する。
